マネージャーブログ

感じるかんじ(贈る)

成田 幸久



みなさん、幸せを贈ってますか?


先日、物置き代わりに使っているロフトの整理をしていたら、懐かしい一枚のポストカードと埃をかぶった地球儀が出てきて、ちょっとセンチな気分になって涙ぐみ、涙腺がゆるくなったのは、やっぱり寄る年波のせいかな?とメランコリーな気分になったりする初夏のさわやかな日々が続きますが、みなさんにとって、一番の思い出の贈り物はなんですか?  


もらってうれしい、うれしくない、というのはともかく、記憶に鮮明に残る贈り物ってありますよね。


塩辛い手作りのチョコレート、左右の腕の長さの違う手作りのリュックサック、左右の大きさの違う手作りの手ぶくろ、好きなミュージシャンのサイン入り写真集、「あなた、陰気臭いから」と贈られた七色に輝くネクタイ……。


最近、読んだ「ツイッターノミクス」という本で“ウッフィー”という言葉を知って、ふと、そんな贈り物のことを思い出してしまいました。


ウッフィーとは、SF小説「マジック・キングダムで落ちぶれて」の中で使われている市場価値のこと。この小説の中では、マジック・キングダムという理想郷での市場価値は貨幣ではなく、「信頼」とか「尊敬」とか「評価」。それを人はウッフィーを呼びます。


「ツイッターノミクス」の著者のタラ・ハントは、この著書でこれからのソーシャルネットワークでは、このウッフィー、つまり「信頼」「尊敬」「評価」が市場価値の軸になるというお話を展開しています。ウッフィーは人からの評判がポイント化されるという意味で、ヤフオクの評価や、はてな、マイミク数に似た市場価値ともいえそうです。 


タラ・ハントは「でも、ウッフィーだけではメシは食えないでしょ」と言う懐疑派を一蹴します。否、むしろウッフィーなしではメシは食えないよ、と。彼女はソーシャルネットワークにおけるウッフィーの役割について書いていますが、じつはそれはソーシャルネットワークでなくとも、同じこと。人類が社会生活を営んできた太古から、「信頼」「尊敬」「評価」のない社会にお金は流れませんし、もちろん幸せも訪れません。


人はなぜ人に贈り物をするのか? 


贈り物は贈る側の貨幣価値の観点に立てばマイナスでしかありません。しかし、人は「贈る」という行為に無形の価値を見出しているから、贈り物をします。贈り物はまさに「信頼」「尊敬」「評価」を具現化したもの。さらにはそこには「愛」という、「信頼」「尊敬」「評価」をも包括する大きな価値観が含まれていたりします。


私がふとロフトで見つけたポストカードと地球儀に思わず涙したのは、そこに失われたウッフィーを見つけたからにほかなりません。


地球儀は、とある誕生日、当時つき合っていた彼女から「これから一緒に旅行をした国をピンで留めていこうね」というメッセージとともにプレゼントされたものでした。「お互いじじばばになった時に、地球上がすべてピンで埋まっていたら壮観だね」と。私にとって、その地球儀という贈り物の価値は、もちろん地球儀自体にあるのではなく、地球儀に託されたメッセージにあります。


ポストカードは、2人が別れて間もない頃、遠い彼方の南アフリカから送られてきたものでした。「元気? こっちはすごい空が青いよ!」と託されたメッセージを受け、私はそのポストカードを地球儀の南アフリカにピンで留めて彼女の帰国を待ちました。ところが1か月経っても、彼女からの連絡はありません。改めてポストカードの消印を見ると、それは私たちが別れるずっと前(3か以上月前!)に、送られていたものでした。それが海外の郵便事情です(その後、彼女からポストカードが届いたのは1年後——結婚の知らせでした)。


みなさん、幸せを贈ってますか?


喜び、笑い、怒り、哀しみ、泣く——そんな思いを人と分かち合った日々、それは思い出となればいつも幸せの一形態になります。 


ウッフィーは、人と人が幸せを交換する通貨とも言えますが、ソーシャルネットワークにおけるウッフィーは、不特定多数と不特定多数が幸せを交換できることを示唆しています。まさにわらしべ長者の現代版です。ウッフィーを育むことによって、お金がない人でも、孤独な人でも、年老いた人でも、幸せをつかむ機会が増え、この地球上に幸せが増えるのは、とってもステキなことだと思います。


ソーシャルネットワークにおいてウッフィー(無形の価値)を創出し、その架け橋となる——そして、より多くの人が幸せを感じる——仕事を通じて、そんな贈り物ができたらいいなあ——それが私のソリューション。


なんて、営業トークにこじつけるのもどうかと思いますが、たった一行の言葉や、たった一枚のポストカードが、かけがえのない価値を持つことだってありますからね。


今週の推薦曲
wearetheworld
「We Are The World」

 

Webを捨てよ町へ出よう

佐藤 秀樹

携帯ゲーム「コロプラ」が人気だそうです。

コロニーな生活 PLUS

最近よく話題に出るこのサイト。仕掛けは分かりやすくて、位置情報とコミュニティを組み合わせたものなんですが、そこにコロニーだとか仮想通貨だとかの仕組みを絶妙に盛り込んでいるので、ユーザーがハマるようになってます。

特に秀逸だな、と思ったのが、「実際の生活で歩く(移動する)と、その距離に応じて通貨がもらえること」と、「実際の都道府県を訪れて、お土産を買いつつ全国制覇してい」仕組みですね。これだと、忙しくてゲームに向き合えない人でも、その忙しさこそがポイントへと反映されるので、仕事で駆けずり回っているだけで、無理なく続けられます。ダイエット食品もびっくり!

こうしてコミュニティの住人になったユーザーは、自分の地図を埋めたい欲にかられたり、お土産集めたい欲にかられて、さらにのめり込んでいくわけですね。

 

Webサービス(特にコミュニティ系)を考えるとき、仕掛けに面白みがあって、かつ筋が通っていないと、ユーザーは興味を持ってくれませんし(なぜそのサイトにわざわざ行く?って思われちゃう…)、仮に来たユーザーも離脱しちゃいますよ。

その点、このサービスの魅力って、よくよく考えてみれば、日本中を旅してみたい、だったり、いろいろな土地のお土産を集めたいだったり。「あれ?いままでみんなが普通にしてきたことだよね」ってことなんだけど、それを自然な形でバーチャルな世界に結び付けてるし、モバイルの持ち味も活かされているし、仕掛けの勝利。

 

で、さらに唸ったのが、この展開

携帯ゲーム“コロプラ”人 気で、GW東京メトロ1日乗車券がバカ売れ!

バカ売れですよ、バカ売れ!バーチャルな世界をベースに、リアルなイベントを提案。ユーザーも楽しめるし、お店も東京メトロも儲かって、なんていい企画!

 

我々がWebを用いた企画をする際、ネット上で完結させたり、できるだけ人を介さない仕組みを考えがちですが、利用するユーザーからすれば、そのサービスが、自分の実際の生活や体験とどう関わるのか、っていうところに、結果的には価値を見出すので、リアルとの接点がないサービスだと、飽きちゃったり、他の趣味に移っちゃいますよね。(セ○ンド○○フとか、バーチャルだけで完結しようとしてるサービスもありましたけどw)

という事で、個人的には、Webマーケティングやら、ソーシャルネットワークで世界を繋ぐ仕掛けもいいけど、ネットとリアルがうまく結びついた、人の熱を感じられるサービスが面白いな、と思う今日この頃。

余地の設計(iPad用電子書籍コンテンツのデモ映像より)

木継 則幸

今日は期末。慌ただしい中でのエントリーとなるため、手短に。

ここ1~2週間で、iPad用電子書籍コンテンツのデモがいくつか紹介された。

たとえば、これ

ユーザーの想像力を萎えさせるだけのリッチな表現には辟易している人も多いだろうが、テキストと映像の間に生じる“間(ま)”から、新たな解釈の“余地”が生まれるかもしれない。

テキストと映像の関係が単なる互いの補完関係に終始せず、新しいコンテクストの創出につながるのではないかと、この試みにはとても可能性を感じる。

たとえば本において“行”と“行”の間から別のコンテクストが生まれ、映画において映像の“断片”と“断片”の間が外部のコンテクストと結びつくように。

コミュニケーション設計において合理性とスピードが重視される中で、このような“余地”をどう埋め込むのか---我々デザイナーにとって、今後とり組むべき大きな課題となるかもしれない。

このようにメディアの枠を広げる試みがある一方、メディアの限界を自覚するからこそ生まれる表現もある。

たとえば、木彫による作品制作を続ける鈴木基真氏

現在のメディア環境下での“感覚による理解”を疑う鈴木氏は、あえて不自由な素材を使い、自身の“認識の速度”を遅滞させる。その遅滞の末に何が見えるか−−−彼は私たちに認識の仕方への自問をうながす。

そして、先月開催された文化庁メディア芸術祭

いくつかの意欲的な作品は、メディアの自由度について考えさせてくれる。

メディアの「不自由さに自覚的にならざるをえないことそれ自体」が、「問題意識として作品に強度を与える」---

これは審査員・辻川幸一郎氏の講評の抜粋であるが、いま起きているいくつかの事象を俯瞰するとき、彼の言葉は示唆的である。

感じるかんじ(しごく)

成田 幸久



球春到来! プロ野球の季節がやってきました。


開幕直前はどんな弱小球団のファンでも、「今年は優勝できるかも!」と期待することが許される唯一の時期でもあります。野球ファンにとっては、“希望に満ちた未来”に胸を膨らませられる季節なのです。

かくいう私も三度のエッチより野球が大好き! 

でも、プレーするのは大嫌い! 

子どもの頃からスポーツは大好きだったのに、野球だけはからっきしダメのダメ。フライはおでこで受けるし、ピッチャーの球は股間で受けるし、自打球は目に当てるし、カーブを打とうとするとバットがピッチャーめがけて飛んでいくし……まあ、とにかく野球が大の苦手でした。


だからこそ、あんな難しいスポーツを軽やかにこなしてしまう野球選手は、私にとって特別な存在であり、憧れであり、尊敬すべき人たちなのです。


やっぱり野球と巨乳はプレーするより、眺めているに限ります。

そう。私にとって野球(と巨乳)は、かくも神々しい聖なる憧れのイコンなのです。


そんな憧れの野球選手が自らをしごくキャンプを迎えると、私はいつもしごき漬けだった中学時代を思い出しては、郷愁に浸ります。このしごきに満ちた充実の日々を思えば、私の残りの人生はほとんど堕落と荒廃と背徳にまみれた歳月と言ってもよいでしょう。

「しごく」を辞書で調べると、漢字では「手が及ぶ」と書いて「扱く」。意味は「(1)細長い物を片手で握り、もう一方の手で強く引き抜く。 (2)いためつける。転じて、厳しく訓練する」とあります。


なるほど、痛そうでもあり、気持ちよさそうでもあります。私のしごきに満ちた中学時代は、まさに痛くて気持ちいい3年間だったと言ってよいでしょう。

 
小学生の時にすでに野球の才能がないと確信した私は、中学に入学すると、姉に「一番モテる」とそそのかされてテニス部に入部しました。まあ、そんな不純な動機で始めたのが運の尽き。テニス部のしごきといったら野球部と双璧をなす過酷なものでした。

1年歳上というだけで全知全能の神として君臨した先輩。そして先輩という神への絶対服従。そんな彼らのもと、カフカもびっくりの不条理かつ理不尽な無限ループのしごきの世界に、私の人生は完全に支配されていました。

炎天下の練習中、水を飲むのが厳禁とされた時代です。飲んだことがバレたら最後。「そんなに水が飲みたければ飲ませてやる」と、バケツいっぱいの泥水を一気飲みです。

飲みきれずに誰かが吐くと、今度は「口だけじゃ足りねえのかぁ? なら、ケツで飲ませてやる」と、全員ワンワンスタイルで座らされて、パンツを下ろしてお尻の穴にホースで放水射撃。


junior

お尻で水が飲めるわけがありません……。


あるいは球拾いでうっかり球を後ろにそらせば、罰としてコートの真ん中に正座をさせられてスマッシュの絨毯爆撃。

あるいは野球部とコラボを組んで校舎の壁に磔付けにされて、トスバッティングの機銃掃射。

あるいは砂浜での片足ケンケンうさぎ跳びマラソン。

それはそれは、創意工夫に満ちた、「痛い、苦しい、辛い」毎日でした。

私がそんな「痛い、苦しい、辛い」過酷な日々に耐えられたのは、ひとえにアニメ「巨人の星」(再放送)のおかげでした。野球を通してひとりの男の生きざまを描いたスポ根の原点となった作品です。戦後の日本でこれほど不運な男は他にいないでしょう。とにかく、どんなにがんばってもがんばっても報われないし、成功したと思ったらまたすぐどん底に突き落とされる日々。無限地獄の如く、挫折と試練を繰り返す人生……。

そんな飛雄馬の生きざまに勇気づけられ、「彼に比べればオレの辛さなんてまだまだ甘いぜ」と自分を励まし、部活が始まる前の早朝も、部活が終わったあとの夕暮れも、休日も本気で大リーグボールに匹敵するような魔球を生み出すために、友人と2人で猛特訓をしていたものです。

しかし、辛い日々を耐えるには、やはり“希望に満ちた未来”が必要です。星飛雄馬だって、“巨人の星”になれる日が来ると信じていたからこそ、どんな試練にも耐えられたのです。

「先輩が引退さえすれば俺たちの天下だ!」を合言葉に2年間耐え忍び、先輩たちのしごきから解放された私たちは、自らのしごきに快感すら覚えました。そして、県下でも指折りの強豪校に成長! そして、最終目標にしていた「テニスをやればモテる」も実現! 私がモテたのは後にも先にも生涯この3年だけ! それが、まさに私にとっての“希望に満ちた未来”でした。

“希望なき”しごきは「フルメタル・ジャケット」の世界であって、行き先はもう地獄しかありません。

仕事でも、徹夜が連日続いたり、理不尽な無理難題を課せられると、時々「苦しい、辛い、辞めたい」という後ろ向きな気分に襲われることがあります。しかし仕事には、必ずやり遂げたときの達成感と評価と報酬という“希望に満ちた未来”があります(なければ、そんな仕事辞めちまえ!)。

自分の意思で試行錯誤しながら自らをしごけば、必ず“希望に満ちた未来”は見つかるーーそれが私が中学の3年間で学んだことでした(だって、私がモテたのは後にも先にも生涯この3年だけ!)。



人にしごかれるより、自分でしごけーーそれが私のソリューション。


なんて、営業トークにもなってないのはどうかと思いますが、人にゴシゴシしごかれるより、自分でシコシコしごいたほうがやっぱり気持ちいいですからね。



今週の推薦曲
hyuma
「ゆけゆけ飛雄馬」

今 東京は午前2時 例え世界が黄昏て 夜の闇に沈んでも 俺は見つけ出すだろう このサイトだけは

佐藤 秀樹

ただいま、3月1日 午前2時
とあるサイトのリニューアルが、無事完了しました。(どんなサイトかは、そのうち事例として掲載します)
このプロジェクトは、約半年かけて、企画から制作、開発までこなしたのですが、もともと継続的にお付き合いのあるお客様なので、実質2年半越しの成果ということになります。

そこで、今回強く思ったことですが、こうなってくると、サイトリニューアルも、オリンピックと同じで(いま旬な話題!)、長い期間のそのタイミングで、如何に最大限のポテンシャルを発揮できるか?みたいな事が大切。
今日の公開に向けて、デザインだとかサイト仕様だとか、ベストな内容で投入できないと「次にリニューアルするチャンスは、4年後にならないと来ないよ!」ということになりますよね。(4年もリニューアルしないのもどうかと思いますけど。。)

ということで、自分も含めて、サイト制作に携わる人達(特にデザイナー)が肝に銘じなければならないこと。そのサイトをこれから数年間、愛し続けられるか?まるでアイドルユニットの推しメンを決めるような真剣さで向き合って欲しいんです。どうですか、そう言われるとサイト制作側の責任って、結構重いでしょ?

 

だから面白いんですよね~、この仕事。

 

われわれディレクタは、そこにあるリニューアルという理想の(と信じている)ゴールへ向かって突き進むのですが、お客様やクリエイティブ&コンテンツのチームと、その理想をしっかり共有し、メンバー全員が ”プロ意識” と ”サイトへの愛” を持っていないと、楽しいことにはならないんです。

徹夜作業や修正の繰り返しなど、つらくて面倒くさい事がたくさんあって嫌!

でも、ひとたび「オリンピックを目指して!」とか、「僕らの七日間戦争に勝利するぞ!」とか考えれば、それなりの努力は惜しまない、という気持ちにもなれるってもんですw

 
 

で、結局何が言いたいかというと、どんなに大変そうなプロジェクトでも、その仕事に愛と情熱を持たなきゃだめだと。いまこの時に、そのサイトを創り上げていくことを、できるだけ楽しむ。「オリンピックに出られただけでも幸せです」という選手の言葉は、とても重みがあるんですよ。
そして参加メンバーが一体感を持つことで、素敵なお仕事になりますよ!ってことです。

『余談ですけど、仕事でプロジェクトを立ち上げる際に、いちいち「クリスタル・インフォバーン」とか、「サムライ・インフォバーン」といったチーム名を付けると、仕事に愛着や一体感が持てたりしてw』

そういう意味でも、今回のリニューアルプロジェクトは楽しかった。とても充実した達成感!(携わった皆様、本当にお世話になりました!大変と感じたPJメンバーもいらっしゃると思います、すみませんw)

あー、なんか文化祭を成功させた後のようだ、、、なーんて言っている側から、キャンペーン用の大規模更新が来週あったりして。。。まるで「ビューティフル・ドリーマー(by うる星やつら2 )」だよねw

バルモンドとローゼンダールの展示から

木継 則幸

デザイン現場における制作インフラの整備が日々進み、ユーザーは一定クオリティの表層イメージを楽しめるようになってきました。が、同時に表現の平準化も進行し、その表現(というよりはその構造自体)に停滞感を感じることも多いのではないでしょうか。

こうした状況の中で我々デザイナーは、一体どのようにして自らの足場を築いたらいいのか−−−

今回は、こんな問いに対する回答の手がかりになりそうなアーティストの活動を、先週足を運んだ二つの展示から紹介したいと思います。

まずは、「『エレメント』構造デザイナー セシル・バルモンドの世界」から。

スリランカ出身の構造デザイナー、セシル・バルモンドは、最新テクノロジーを駆使し、コールハースやカプーアなどの有機的で躍動的な構造物の実現を可能にしてきたことで知られていますが、彼はその構造を生み出すために、自然の仕組みに着目します。

「よく観察する。そして創り出す。そのとき、その成り立ちまで考える。外見と内側にあるものの間には劇的な往還が生まれ、想像力を呼び起こす。“リアル”なものとは、閉じて固定されたものではなく、浸透性があって、いくつかの要素によるマトリクスがつくる全体系の中に存在する」

「観察を続けると、(中略)なにか別のものが頭をもたげ、私たちの感情や記憶を刺激する。説明的な言葉や線が止まったとき、その姿の内側には直感的なものが形を結ぶのだ」

バルモンドのこんな言葉が掲げられた会場を進んでいくと、独創的で新しい構造の秩序を生み出すために、彼がダイナミックに視点を変位させながら自然を観察していくプロセスがよくわかります。

そしてもう一人、現在TSCAにて個展が行われているラファエル・ローゼンダール。

ミニマルなFLASHアニメーションで知られる作家ですが、彼が面白いのは、ひとつひとつの作品にそれぞれ違うドメインを与え、作品の購入者にはドメインの所有権が与えられること。購入された作品も公開され、ここでは所有と共有のひとつの形が提示されています。

先日、ギャラリストの染谷卓郎氏に話を聞く機会があったのですが、興味深いのは、ローゼンダールが論理的な思考の末このようなスタイルをとっているのではなく、すべてを直観的に行っているということ。
時代性/永続性、所有/共有がバランスする位置を瞬時に嗅ぎとった結果、といえるでしょうか。

“直観”。

モチベーションもアプローチも異なる二人の創作活動から偶然出てきたキーワードですが、
(バルモンドのいう“直感”は、“直観(観察や経験の積み重ねによる、本質を捉える力)”の方がその意を正しく言い当ててるでしょう)

この言葉をして、冒頭の問いに対する回答としてしまっては、身も蓋もありません。

が、しかし。
はたして“直観”が生まれ出る領域を自分の中にどれだけもっているか?
二人の作家から、こんなことを問われたような気がします。

感じるかんじ(舐める)

成田 幸久

みなさん、いっぱい舐められてますか?
お正月に公園のベンチで昼寝をしていたら、犬に顔を舐められました。

犬にとって、舐めることは無条件の愛情表現を意味するそうです。でも、見知らぬ赤の他人の顔をいきなり舐める犬って、なんてお人(犬?)好しなんでしょう。


dog


ちなみに同じ「なめる」でも、「馬鹿にする、見下す」という意味の「なめる」は、源氏物語にも出てくる「なめし(無礼し)」という形容詞が生き残った表現だそうです。むしろ現代では「ナメる」という表現の方がしっくり馴染むかもしれません。

ちかごろ、お客さんにも、出入りの業者さんにも、部下にも、嫁にもナメられっぱなしだよ〜! とお嘆きの方には、一度「舐め返して」みることをオススメします。その先にはきっと笑門来福への道が開かれていることでしょう。

ことほど左様に「舐める」という行為は、五感の中でもとりわけ愛情表現として大きな役割を果たすものなのです。

1960年〜70年代に一世を風靡した文明批評家のマクルーハンは、かつて「電子メディアの到来によって視覚優位の世界が崩れ、五感の使われるバランスが大きく変わり、全身体的知覚の世界になるだろう」と予言しました(おおざっぱに言えば「テレビの登場によって、メディア=紙=文字=視覚依存」の支配する時代は終わったのだよ、と)。


全身体的知覚の世界?


インターネット黎明期の90年代、そんな彼の予言に触れた私は、「もしかしてインターネットならモニタに映し出された美女の頬をペロペロしたり、甘いキッスの味を体験できたり、妖艶な香水の匂いを嗅ぐことができるわけ? すごすぎる! なんてステキなんだろう!」と、勝手に拡大(誤)解釈をしてワクワクしたものです。


ところがどっこい。


モニタに映し出された美女をいくら舐めても、いまだに彼女たちは反応をしてくれないし、甘い香水の匂いも漂ってきません。むろん愛情も伝わってきません。せいぜいこんな感じでマウスを動かしたり、キーボードをたくさん叩くと、定型パターンで反応してくれる程度です。

インターネット時代の到来によって、たしかに私たちはテレビという受動的メディアの呪縛から解き放たれ、指先と視覚を駆使する能動的メディアへの依存を深めつつあります。しかし、全身体的知覚どころか、舐めたり嗅いだりする身体機能はむしろ蔑ろの一途を辿っています。聴覚さえもマクルーハンが熱く力説したほどには、大きな役割を果たしているとは思えません。

そもそもヒトは、直立二足歩行を始めた時から両手の自由を得たことで、お猿さんと一線を画する進化をしてきたのですから、今後も進化するのは、もっぱら指先と視覚だけのような気がします(スピルバーグ監督の映画「E.T.」の姿はまさにヒトの進化形!)。

古来、ヒトは他者とのコミュニケーションにおいて五感(と言葉)をフルに駆使し、愛と信頼を育んできました。これを電子メディア(バーチャル世界)において、指先と視覚(あるいは文字)だけでどこまでリアルなコミュニケーションを実現できるか? それがWeb2.0の大きな課題と期待なのかもしれません(そして、その使命を担うのがインフォバーン!)。

マクルーハンが予言したように、電子メディアはたしかに「身体の拡張」として日々進化しています。でも、Web2.0になろうが、Web3.0になろうが、「舐める」という行為を凌駕するリアルなコミュニケーションの実現する日を期待するのは、酷というものでしょう(しかし、その代替ソリューションを持つのがインフォバーン!)。

そう。
舐めるとは、バーチャル体験の介在を受けつけない最後に残された唯一無二のリアルなコミュニケーション行為なのです(そして、その代替ソリューションを持つのがインフォバーン!)。


これこそが、Real2.0。
舐めよ、さらば与えられん。


舐めてほしければ、自分が舐めてほしいツボと度合いを相手にアクションで示せばよいのです。時には狂おしいほどに舐めてあげれば、相手もその気持ちに理解と信頼を示し、舐め返してくれることでしょう(そして、それに匹敵するサービスを提供するのがインフォバーン!)。

そう。
舐めるとは、愛と信頼の証なのよ(映画「ある愛の詩」風に)。


これこそが、WIN & WINのリレーション。
これこそが、GIVE & TAKEのコミュニケーション。
これこそが、LOVE & TRUSTのレボリューション。


ナメるより、舐めろ。
ナメられたら、舐め返せ。
舐めるなら、骨の髄まで、尻の穴までーーそれが私のソリューション。


なんて、ムリやり営業トークにこじつけるのもどうかとは思いますが、とことん舐め尽くせば、やがて快楽の泉に浴することができるかもしれませんからね。


今週の推薦曲
倖田來未「Lick me」
lickme

年の瀬に仕事への禁区

佐藤 秀樹

気がつけば今年も終わり。月日の経つのは早いもので…

今年も1年、たくさんのみなさんにお世話になりました。ありがとうございます。




年末になると忘年会やパーティーで人と会う機会が増えますね。

日ごろお付き合いのある同業の方々と飲むような場合は、今年のお仕事を振り返りながら充実した(忙しくてろくに遊べなかった)1年を噛み締めてみたり、最近のWeb業界ってどうよ?といった(時に前向きか後ろ向きか判らなくなる)話題で盛り上がったりします。

それはそれで凄く楽しいのですが、私は、お客様と飲む機会にも、とてもワクワクします。(もちろん嫌々する接待もあって。。。 大嫌いですけど)


お客様と仕事場を離れてお話すると、普段の付き合いだけではなかなか知ることのできないプライベートな情報を沢山得ることができます。趣味が聞けたり、意外な話題で盛り上がったりと、新鮮な驚きとなる場合が多いんです。

そうして、お客様とWebの担当ディレクターという関係を超えて、一人の人間として理解が深まり、よりよい人間関係を築けると、その後のお仕事はさらに充実したものになりますよね。

先日、お仕事をご一緒していた方が退社されたのですが、その方はお付き合いのあるお客様から、部署ごとに複数の送別会を開いていただいていて、なんか素敵だな、と思いました。(そしてちょっとジェラシーw)

私も、来年は沢山のお客様と、より深い人間関係を築いていけたらいいな、と思います。



ところで、お酒が入った席では、時々、手がけているプロジェクトの話題で、お客様と議論が白熱することがありますよね。こんなとき、私はお客様とできる限り、本音で話すようにするのですが、そこでお客様からの本気の言葉を聞けるかどうか、内容よりそちらが気になっちゃいます。

なんと言っても、会社やビジネスとしてのしがらみを超えて、そのお客様が本当はどう思っているのか、を知ることのできる絶好の機会ですから。一言一句聞き逃せません。そこから、自分が本当は何をしなければならないのかに気づかされることも多々あるのです。



けど、それだけじゃないんです。。。


Webのプロとして依頼されている以上、自分はプライドを持って仕事をしたいので、そのプロジェクトを手がけるお客様にも本気で向き合ってほしい!


「あたい、本気だから、あんたにも本気で愛されたいの!」


分かってほしいな、そんな思い。


「気がついたらこのプロジェクトを愛してたの…」

♪戻りたい 戻れない 気持ちうらはら

 とまどいはもう愛ね…そろそろ禁区

 あそびならまだましよ 救われるから

 他のひと愛せれば いいのだけれど

 それはちょっとできない 相談ね

「ヴジャデ」、デザイナーになるための第一歩

木継 則幸

ジョージ・カーリンというアメリカのコメディアンが 、昨年、71歳で亡くなりました。

米国の体制を痛烈に批判するその毒舌ぶりで知られていた彼は、もう一方で、「ヴジャデ」という奇妙な言葉を残したことでも知られています。

この耳慣れない言葉は「デジャヴ」を逆さまにした造語で、「何度も体験してるのに、はじめて見ることのように感じる」といったことを意味します。

このコメディアン、こんな造語を使って「だれもが知っているけれどもだれも気付いていないことを見せると、人は笑う」ということを説明したんですね。

さて、この「ヴジャデ」という言葉、デザインファーム IDEOのトム・ケリーが『イノベーションの達人!』で使用したことにより広く知られるようになったようですが【※】、我々デザイナーに対しても、物事を見るうえで非常に大切なことを教えています。

すなわち、「いつも経験していることに対し、常に新しい見方ができるかどうか」―――

このベーシックな視点の持ち方は、言葉のシンプルさとは裏腹に、その実践がなかなか容易ではありません。その困難さは、何人かのデザイナーたちが、同じことを違う言葉で繰り返し発言していることからもわかります。

たとえば原研哉さんは「日常の未知化」という言葉を使い、先駆的なプロダクトデザイナーであり教育者でもあるアッキレ・カスティリオーニは、「自らを批判する能力」という表現で伝えています。

少し長くなりますが、ここではカスティリオーニの、学生たちに宛てた手紙の中からこんな言葉を引用します。


好奇心がないなら(デザインなんて)おやめなさい。他の人々のこと、彼らのすること、その行動に興味を持てないようならデザインはあなたたちの職業ではありません。

(中略)

路上、映画館、テレビ、そういったところで、人々のごく当たり前な身振りや慣習順応的態度、人が気にも止めないようなフォルムを批評的な目をもって観察することを我々は学ぶのです。それらとは違う何かができるし、またそうするべきであるということを理解するために。

良いプロジェクト(デザイン)とは、(中略)あなた達がデザインしたものを使うことになる見ず知らずの人々とほんの些細なことでもいいから経験を取り交わそうという、その気持ちから生まれるのです。

(中略)今日の学生たちに理解してもらいたいのは、デザインが真に問題にすべきものは、生活行為の中にある間違いや逸脱の中に見い出せるはずだということなのです。

―――「学生たちへの助言」(多木陽介『アッキレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』(AXIS)収録)より抜粋

一見何でもないものや人々の身振りの中に、どれほどの過ちの蓄積があるのか―――。見慣れたものを、習慣として片付けないこと。「わかった」と終わらせないこと。

それがデザイナーになるための第一歩であると、彼らの言葉は教えてくれます。

【※】棚橋弘季『デザイン思考の仕事術』(日本実業出版社)より

感じるかんじ(走る)

成田 幸久

みなさん、いっぱい走ってますか?
坊主も走る、師走の季節がやってきました。

私は師走に限らず、毎晩、午前零時を迎えると近所の公園を走っています。走り始めた頃、真夜中の公園はとてもとても不気味でした。ものの怪が出てきそうですし、月夜にはバンパイヤやルナティックな人たちが大挙して押し寄せてきそうな気配も漂います。

まさに暗中模索。

でも、そんな不安や恐怖を克服して走り続けていると、実は公園で一番不気味なのは私自身だった!と気づくまでに、それほど時間はかかりませんでした。カップルや犬を連れた女性が、不意に私と遭遇した時の恐怖に怯える形相を見れば、私がいかに不気味な存在か、否が応でも思い知らされます。それはまるでナイト・シャマランの映画の主人公になったような、驚愕の発見でした。

ちかごろ、巷では森ガールと呼ばれる女の子たちが増殖しているそうですが、世田谷の公園で深夜に不気味な森オジサンが出没!という噂が広がっていたら、それは私です。

そう。そんな私は、森オジサン。

run

今ではカラダがジョギングコースを覚えてしまい、暗闇で目隠しをしても走れます(ウソです)。でも、視覚の自由が奪われた暗闇を走っていると、聴覚、嗅覚、触覚など、他の感覚機能が冴えてきます。風のそよぎを感じ、木々の息づかいを感じ、土の匂いを感じ、虫たちの囁きを感じ、春夏秋冬の移り変わりを肌で感じるようになってきます。第六感も磨かれ、そろそろ森の妖精も見えてきそうな期待感も高まってきてます。

なぜ走る?
それは、気持ちいいから。

都会暮らしで退化つつある五感が日々研ぎ澄まされていくのも、走り終えたあとの熱い風呂と冷たいスプライトゼロも、快楽の一助となっています。とはいえ、走ればすぐに気持ちよくなるというものではありません。ましてや「あっはーん♡、うっふーん♡」なんていう気持ちよさを期待すると、必ず裏切られます。そして、どんなに毎日走っても、最初の30分はいつも苦しいんです。

ただ、30分を越えると「あっはーん♡、うっふーん♡」とまではいかなくとも、ゆるやかな爽快感はやってきます。それはβ-エンドルフィンというホルモンが分泌されるためだと考えられています。走っているとカラダは脳に苦しい、辛いという信号を送り、その信号を受けた脳が苦しさや辛さを和らげるために、β-エンドルフィンを分泌するわけです。エッチをした時や美味しいものを食べた時も同じように分泌されるそうなので、もしかすると修行を積めば、このβ-エンドルフィンがいつか「あっはーん♡、うっふーん♡」という快楽をもたらしてくれる日が訪れるかもしれません。

はたして走る、とは?
私は自問自答します。

アジア有数の名門校として知られるシンガポール国立大学のマーケティング理論の教科書には、こんな主旨の訓辞が書かれているそうです【*】。

鹿は朝日が昇ったらすぐに走り出す。
そうしないと、虎に食べられてしまうから。

虎は朝日が昇ったらすぐに走り出す。
そうしないと、鹿を食べられないから。

鹿になるか虎になるかは君次第。
どちらにしても君は朝日が昇ったらすぐに走るべきだ。

そんな内容だったと思います。
弱肉強食は人間社会も同じ、ということでしょうか。

私は鹿にも虎にもなりたくはありませんが、「自分にできるのか?」「もし失敗したら?」などとあれこれ考えるより、まずは走ってみることにしてます。もちろんすぐに走ったからって、30分で快楽や結果が得られるものではありません。場合によっては30日、あるいは300日かかるかもしれません。

でも、走りさえすれば、たとえ遅くても、途中でコケても、ケガしても、沿道の人は必ず応援してくれるものです。完璧に走る必要なんてないんです。暗中模索を経てゴールにたどり着けば、そこには完走した者だけが知る快感が待ってます。

だから私は仕事でも、たくさんのハードルを与えられ、とことん追い詰められ、ヘロヘロになるまで走らされ、たくさん汗を流すことに、悦びを覚えます。

考えるより走れーーそれが私のソリューション。

なんて、営業トークにこじつけるのもどうかと思いますが、苦しい思いをすればするほど、β-エンドルフィンはたくさん分泌されますからね。

【*】「週刊ベースボール」に連載中の清武英利氏のコラムからの抜粋。

今週の推薦曲「明日なき暴走」
borntorun

「俺たちのようなクズ野郎は突っ走るために生まれてきたんだ!」と叫ぶブルース・スプリングスティーン。

放課後のソーシャル

佐藤 秀樹

智美 「優子! 高校辞めるって本当?」

優子 「ごめん… 高校に通ってる意味が分からなくなったんだ」

才加 「高校に通ってる意味?」

智美 「急に? なんで?」



今さら語るまでもないですが、Webによるプロモーション施策の中でも、クチコミやコミュニティを活用した、いわゆる「ソーシャルプロモーション」は、ここ数年でとても盛んになりました。手法は様々あると思いますが、最近のトレンドだと、やはりTwitterによる「つぶやき」でしょうか。



優子 「わたし、どうしてもソーシャルプロモーションがうまくいかないの!」

智美 「ソーシャルプロモーション?」

優子 「そう、ソーシャルプロモーション…」
    「わたし、高校に入ったらもっとクチコミされると思っていたの」
    「きっと上手くいくって。なのに…」



Buzz Lounge を始めました。

弊社が提供する、ソーシャルプロモーションのパッケージです。
Twitterや、Blogなどのソーシャルメディアを活用したプロモーション、マーケティングを、お客様に提供します。

この、Buzz Lounge 、パッケージだからと言って、定型の仕組みを導入して、ただじっとクチコミを待つ、というものではないんですよ。



才加 「優子 そんな簡単にクチコミなんてされないよ!」

優子 「才加!!」

才加 「あんたみたいなのは、高校辞めたって何も変わらないよ」
    「目的もなくだらだらと、毎日膨大なつぶやきを無駄にするだけさ」



Buzz Lounge では、まず、商品やサービスを魅力的に見せるためのコンテクストをじっくり編みます。

Webシステムの構築や、広告メニューの提供ではなく、「響くメッセージ」「共感してくれるユーザー」「魅力的なイベント」 これらを共に考えてはじめて、そこに寄り添う仕掛けやクリエイティブを投じるから、効くのです。



優子 「じゃあ、才加はどうやってソーシャルプロモーションしてるの?」

才加 「私は自分に正直なだけ」
    「みんな、好き勝手に噂するわ。だから毎日、悩んだり落ち込んだり」
    「それでも、私は逃げない! いいクチコミされたいなんて、私、思わないよ」



サービスの理想は、ユーザーのクチコミを自由に操れることでしょう。でも、クチコミは結局、人の気持ちやつながりの産物ですから、それがどのように広がっていくかなんて、本来、誰にも分かりません。

プロモーションを成功させるためには、まず、集まりやすく、クチコミしやすい場づくり をすることなんじゃないでしょうか。

場所ができたら、あとは毎日集まって、みんなで泣いたり笑ったり…

まるで放課後の教室のように、Buzz Lounge の周りで、ユーザーがワイワイし出したら、もう止まりません。



優子 「私は才加みたいに強くないな」
    「これから、クチコミとうまく付き合っていく自信ないよ」

才加 「あたしだって強くなんかないよ」
    「でも、ここにくれば、毎日、同じようにつぶやく仲間がいるから…」

智美 「わたしも一緒。仲間がつぶやいてくれるから、わたしもつぶやくの」

優子 「みんな、ありがとう…」
    「わたし、試してみるよ Buzz Lounge!!」

「フリーミアム・ハックス」から見えたもの

木継 則幸

アートディレクターの木継です。本コラムでは、実際の制作現場から日々感じたことなどを、メモがわりにアップしていきたいと思います。

さて今回は、先週末行われた、当社がプロモーションに関わり、また電子版書籍を1万部無料配布して話題となった『フリー <無料>からお金を生みだす新戦略』(NHK出版)のトークイベント「フリーミアム・ハックス」の話題から。

詳細はlifehackerのイベントレポートをご覧いただくとして、制作者の視点から気付いたことを記しておきます。

登壇者は佐藤僚氏(頓智ドット株式会社 COO)、杉山竜太郎氏(株式会社LoiLo取締役)、田端信太郎氏(株式会社ライブドア執行役員/メディア事業部長)。モデレーターは弊社CEO小林。

「フリーミアム」とは「フリー」と「プレミアム」を足した新たなビジネスモデルをさす造語ですが、そのビジネスのリアルな実践者たちによるトークは、セカイカメラの最大化戦略からフリーペーパーの高品質化のしくみ、そしてアテンション・エコノミーからドネーションまでその話題を拡げ、メディアビジネスやネットマーケティングに携わる人にとってはいくつかのヒントがちりばめられた内容だったのではないでしょうか。

私にとってのヒントは、今後、よりコンテンツ(サービス)開発能力が問われるだろうということと、コンテンツ(サービス)とデザインはより不可分なものになるだろう、ということ。

今回のトークショーは「フリー」の部分に議論の重点がおかれたようですが、我々制作者にとって重要なのはさらにその先。つまり、フリー戦略によってユーザーの母数が増大した上で、いかにタダで手に入る他のものとは圧倒的な差異のある「プレミアム」な価値を提供できるか、ということです。

例えばメディアにおけるそれは高品質なコンテンツですが、高品質なコンテンツは、「情報」がコンテンツ化される過程において、必ずデザインが高次元で関与しています。

ところがデザイナーは、コンテンツとはすでにあるものと思いがち。

当社でも、制作部門が「コンテンツ/クリエイティブ/WEBディレクション」という3つの専門領域に分かれているため、合理的な制作フローを構築して各自が専門性を発揮しやすい反面、その弊害として、デザイナーは、分業制による錯覚──すなわちデザインとは「(誰か別の人が用意してくれた)コンテンツに形を与える」ということ──に陥りがちです。

いうまでもなく、デザインとは、「既にあるコンテンツ」に形を与えることだけではありません。「情報」を見つけ出して「コンテンツ」に変え、ターゲットのもつテンプレートにあわせてアウトプットしていく──そのプロセスそのものが「デザイン」なんですね。

合理化が進んだ体制は、時にそんな自明なことを忘れさせてしまうこともあるようです。

情報をノイズ化させるのではなく、いかにその有用性を柔軟に可視化しながら、細分化されたユーザーに届けるのか──今後ますます増大していくであろうその困難さを思いながら、「フリーミアム」という新しいビジネスの潮流のさらに向こう側に、我々デザイナーが拓くべき地平がチラッと垣間見えた気がします。

感じるかんじ(刺す)

成田 幸久

みなさん、セミに刺されたことがありますか?
刺すんですよ、セミって。

お盆を過ぎた頃でした。近所の公園をジョギングしていると、道端に一匹のセミが転がっていました。死んでいると思ったセミが、なんだかちょっと動いていたものですから、拾って人差し指に絡ませてみました。するとこのセミ、6本の脚でしっかりと私の指にしがみつくんです。

こいつ、ちょっとキュートかも♡……なんて、眺めていた刹那、チクっと微痛が走りました。あの長く尖ったクチバシを私の指腹にプスっと刺して穴を空けているではないですか。樹液でも出てくると勘違いしたのでしょうか。まあ、昇天間近のセミに怒っても仕方がないので、私はこのセミを赦すことにしました。

SEMI

ところでこの場合、やはり「刺された」というべきなのか気になって、ATOKで「さす」と打って漢字変換してみました。意外とたくさんあるんですね。「射す」「差す」「指す」「刺す」「挿す」「注す」「点す」と、さまざまな漢字が出てきました。

痛そうな順番で言うと、刺す>射す>指す>差す>注す>点す>挿すという感じでしょうか。

痛さは「圧力」に比例します。一面積当たりにかかる圧力が大きいほど痛みを感じます。また“気の持ちよう”によっても痛点は変わってきます。乳首を洗濯ばさみで挟まれて「痛いっ!」と感じる人もいれば、「気持ちいいっ!」と感じる人もいるーーそんな感じ?

で、一番痛そうな「刺す」。「名刺」のように「札」を意味することもあるようですが、やはり殺意を感じます。「注す」と「射す」は「日射し」や「注目」など、“気の持ちよう”(あるいは使う場面)によって、痛みの強弱は変幻自在です。「注す」と「射す」がくっつけば「注射」。痛そうです。イヤですね。「指す」といえば、やっぱり後ろ指。人に後ろ指や欠点を指されるのはハートがちくちく痛みますが、時には自分のために必要なことかもしれません。

そして「挿す」。

ほとんど痛みとは無縁な印象です。辞書には「細長い物を他の物の間に入れる」(太くて短い物はダメ?)とあり、使用例を見ると「髪に櫛を挿す」「挿し木」「挿し花」というように、やっぱり優しいことば使いになります。「挿す」には、「挿す側」と「挿される側」のあいだに合意があるようにも思えます。

あるいは「挿入」。

気持ちよさそうです。入れる時は固くて、出す時は柔らかいものはなーんだ? なんていうクイズの答えはガムですが、これは「噛む」ものですね。

話が逸れました。

誰だって「刺したり」「刺されたり」することとは、無縁でいたいものです。でも、時にはちょっと痛い思いもしてみないと、人はなかなか成長することができません。

私はこの「刺す」という漢字を使った「刺激」ということばが好きですが、人は「刺激」にもすぐ慣れてしまう困った生き物です。だから、マンネリや惰性や退化から逃れるためにも、時々、自ら「刺されてみる」ことはとてもいい体験だと思うのです。

だから私は仕事でも、お客さんにたくさん指摘されて、たくさん叱られて、たくさん刺激されて、ちょっとだけ誉められることに、快感を覚えます。

「痛み」を「快感」へ——それが私のソリューション。

なんて、営業トークにこじつけるのもどうかと思いますが、最初は痛い思いをしても、慣れてくれば気持ちよくなることって、いっぱいありますからね。

PS
ちなみにセミに刺された場合は、「螫す」という漢字が使えるようでした。
「虫を赦す」と書きます。

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