みなさん、いっぱい舐められてますか?
お正月に公園のベンチで昼寝をしていたら、犬に顔を舐められました。
犬にとって、舐めることは無条件の愛情表現を意味するそうです。でも、見知らぬ赤の他人の顔をいきなり舐める犬って、なんてお人(犬?)好しなんでしょう。

ちなみに同じ「なめる」でも、「馬鹿にする、見下す」という意味の「なめる」は、源氏物語にも出てくる「なめし(無礼し)」という形容詞が生き残った表現だそうです。むしろ現代では「ナメる」という表現の方がしっくり馴染むかもしれません。
ちかごろ、お客さんにも、出入りの業者さんにも、部下にも、嫁にもナメられっぱなしだよ〜! とお嘆きの方には、一度「舐め返して」みることをオススメします。その先にはきっと笑門来福への道が開かれていることでしょう。
ことほど左様に「舐める」という行為は、五感の中でもとりわけ愛情表現として大きな役割を果たすものなのです。
1960年〜70年代に一世を風靡した文明批評家のマクルーハンは、かつて「電子メディアの到来によって視覚優位の世界が崩れ、五感の使われるバランスが大きく変わり、全身体的知覚の世界になるだろう」と予言しました(おおざっぱに言えば「テレビの登場によって、メディア=紙=文字=視覚依存」の支配する時代は終わったのだよ、と)。
全身体的知覚の世界?
インターネット黎明期の90年代、そんな彼の予言に触れた私は、「もしかしてインターネットならモニタに映し出された美女の頬をペロペロしたり、甘いキッスの味を体験できたり、妖艶な香水の匂いを嗅ぐことができるわけ? すごすぎる! なんてステキなんだろう!」と、勝手に拡大(誤)解釈をしてワクワクしたものです。
ところがどっこい。
モニタに映し出された美女をいくら舐めても、いまだに彼女たちは反応をしてくれないし、甘い香水の匂いも漂ってきません。むろん愛情も伝わってきません。せいぜいこんな感じでマウスを動かしたり、キーボードをたくさん叩くと、定型パターンで反応してくれる程度です。
インターネット時代の到来によって、たしかに私たちはテレビという受動的メディアの呪縛から解き放たれ、指先と視覚を駆使する能動的メディアへの依存を深めつつあります。しかし、全身体的知覚どころか、舐めたり嗅いだりする身体機能はむしろ蔑ろの一途を辿っています。聴覚さえもマクルーハンが熱く力説したほどには、大きな役割を果たしているとは思えません。
そもそもヒトは、直立二足歩行を始めた時から両手の自由を得たことで、お猿さんと一線を画する進化をしてきたのですから、今後も進化するのは、もっぱら指先と視覚だけのような気がします(スピルバーグ監督の映画「E.T.」の姿はまさにヒトの進化形!)。
古来、ヒトは他者とのコミュニケーションにおいて五感(と言葉)をフルに駆使し、愛と信頼を育んできました。これを電子メディア(バーチャル世界)において、指先と視覚(あるいは文字)だけでどこまでリアルなコミュニケーションを実現できるか? それがWeb2.0の大きな課題と期待なのかもしれません(そして、その使命を担うのがインフォバーン!)。
マクルーハンが予言したように、電子メディアはたしかに「身体の拡張」として日々進化しています。でも、Web2.0になろうが、Web3.0になろうが、「舐める」という行為を凌駕するリアルなコミュニケーションの実現する日を期待するのは、酷というものでしょう(しかし、その代替ソリューションを持つのがインフォバーン!)。
そう。
舐めるとは、バーチャル体験の介在を受けつけない最後に残された唯一無二のリアルなコミュニケーション行為なのです(そして、その代替ソリューションを持つのがインフォバーン!)。
これこそが、Real2.0。
舐めよ、さらば与えられん。
舐めてほしければ、自分が舐めてほしいツボと度合いを相手にアクションで示せばよいのです。時には狂おしいほどに舐めてあげれば、相手もその気持ちに理解と信頼を示し、舐め返してくれることでしょう(そして、それに匹敵するサービスを提供するのがインフォバーン!)。
そう。
舐めるとは、愛と信頼の証なのよ(映画「ある愛の詩」風に)。
これこそが、WIN & WINのリレーション。
これこそが、GIVE & TAKEのコミュニケーション。
これこそが、LOVE & TRUSTのレボリューション。
ナメるより、舐めろ。
ナメられたら、舐め返せ。
舐めるなら、骨の髄まで、尻の穴までーーそれが私のソリューション。
なんて、ムリやり営業トークにこじつけるのもどうかとは思いますが、とことん舐め尽くせば、やがて快楽の泉に浴することができるかもしれませんからね。
今週の推薦曲
倖田來未「Lick me」



