今日は期末。慌ただしい中でのエントリーとなるため、手短に。
ここ1~2週間で、iPad用電子書籍コンテンツのデモがいくつか紹介された。
たとえば、これ。
ユーザーの想像力を萎えさせるだけのリッチな表現には辟易している人も多いだろうが、テキストと映像の間に生じる“間(ま)”から、新たな解釈の“余地”が生まれるかもしれない。
テキストと映像の関係が単なる互いの補完関係に終始せず、新しいコンテクストの創出につながるのではないかと、この試みにはとても可能性を感じる。
たとえば本において“行”と“行”の間から別のコンテクストが生まれ、映画において映像の“断片”と“断片”の間が外部のコンテクストと結びつくように。
コミュニケーション設計において合理性とスピードが重視される中で、このような“余地”をどう埋め込むのか---我々デザイナーにとって、今後とり組むべき大きな課題となるかもしれない。
このようにメディアの枠を広げる試みがある一方、メディアの限界を自覚するからこそ生まれる表現もある。
たとえば、木彫による作品制作を続ける鈴木基真氏。
現在のメディア環境下での“感覚による理解”を疑う鈴木氏は、あえて不自由な素材を使い、自身の“認識の速度”を遅滞させる。その遅滞の末に何が見えるか−−−彼は私たちに認識の仕方への自問をうながす。
そして、先月開催された文化庁メディア芸術祭。
いくつかの意欲的な作品は、メディアの自由度について考えさせてくれる。
メディアの「不自由さに自覚的にならざるをえないことそれ自体」が、「問題意識として作品に強度を与える」---
これは審査員・辻川幸一郎氏の講評の抜粋であるが、いま起きているいくつかの事象を俯瞰するとき、彼の言葉は示唆的である。

